王様はひとりぼっち 2 菊丸×リョーマ「ねえ、壇くん。ちょっと休もうか」菊丸は壇王子に優しく呼びかけた。 菊丸に勉強を教わっていた壇王子は、気遣わしげに顔を上げる。 「え、でも……僕、もっと勉強しなくてはいけないです」 「壇くんは変わったねえ」 菊丸が壇に勉強を教わるのをずっと見ていた千石が驚いた声を上げた。 「こんなにお勉強が大好きになるなんて」 「王子は以前から努力家だっただろ」 大石が千石をいさめる。 壇王子は、ここのところひどく勉強熱心だった。菊丸に頼んで、国の統治法や、家臣たちの扱い方のレクチャーを熱心に聞いている。菊丸も持てる知識のありったけを壇王子にそそぎこんだ。 二人がこうなったのは、あの事件以来のことだった。 そのことに、大石も千石もとっくの昔に気づいている。 でも、言葉にできない。 「そりゃそうだけど、以前よりずっと努力家になったよ」 千石に言われて、大石は大きくうなずいた。 「たしかにな。王子、少し休まれてはいかがですか。あまり根を詰めすぎるといけません」 大石にそう言われて、壇王子はようやく本から顔を離した。 「そうですね。でも、僕より菊丸さんの方が、もっともっとお忙しいですっ。ね、菊丸さん……」 壇王子の呼びかけに、菊丸は答えなかった。壇と大石たちの表情が曇る。 菊丸は遠い目をして、バルコニーの外を見つめていた。 「王様だ!」 「優しい王様だ!」 「我らの王様、バンザーイ!」 城下から、国民たちの声が聞こえた。 菊丸はリョーマの失踪後、政治的にも外向的にも実に尊敬すべき手腕を発揮し、国民の尊敬の的となっていたのである。 リョーマが去ってからしばしの間、菊丸は家臣たちに命じて、リョーマのいどころを血眼になって探した。自分自身もリョーマの姿を追い求めた。 だが、リョーマの行方はようとして知れなかった。 やがて菊丸は、何かを決意したように、以前にも増して王政に力を入れるようになったのである。 家臣たちはそれに喜び、菊丸に早く奥方を据えて、より落ち着いてもらおうと言い合った。 そして次の週末の舞踏会で、菊丸は諸国から参上した姫君たちの中からお后を選ぶことになっている。 菊丸はにっこりと笑って、国民たちに手を振った。 拍手喝采がまきおこる。 けれど、菊丸の目が少しも笑っていないことに壇王子たちは気づいていた。 深夜の城塔。 壇王子に呼び出された桜乃は、悲しそうに首を振った。 「あなたの願いは聞き届けられないわ」 「どうしてですかっ? 越前くんの居所は、桜乃さんの魔法でもうつきとめられたです! 桜乃さんは越前くんに会ったんでしょうっ? だったらなぜ、菊丸さんのもとに越前くんを戻してあげられないですかっ!」 「だって、リョーマくん自身が菊丸さんのところに戻るつもりがないもの。もしそうしても、結局同じことになるだけよ。私の魔法は、人の心は変えられないもの」 「そんな……そんな、ひどいですっ!」 壇王子は大粒の涙をぽろぽろとこぼした。桜乃はいたましげに壇の小さな肩に手を置きながら説得する。 「リョーマくんは、菊丸さんとこの国のためを思って姿を隠したのよ。あなたもそれがわかっているなら、菊丸さんのためになるようにもっとがんばって。それが唯一、あなたにできることだと私は思うの」 「それはわかってます。だから僕も、がんばって勉強してるです。でも、でも……元はといえば僕のせいで、菊丸さんと越前くんがこんなことになったと思うと……」 曇る桜乃の顔を見て、壇王子はあわてて謝った。 「ご、ごめんなさいです! べつに桜乃さんを責めてるわけじゃないです! ただ、僕が王様としてしっかりしなかったばっかりに……」 「わかってるわ」 桜乃は悲しげに微笑んだ。 そして懐から、壇にあるものを手渡した。 それはきらめく輝きを放つ、ダイアモンドの指輪だった。壇王子はその美しさに、思わず涙に濡れた目を見開いた。 「これ、リョーマくんからあずかったの。菊丸さんに渡してあげて」 壇王子が菊丸にその指輪を渡すと、菊丸はただ「ありがとう」とだけ言って、自らの指にその指輪をはめた。 菊丸は指輪にくちづけ、そして静かに涙を流した。 花嫁選びの日は、目前に迫っていた。 お城では、かつてないほど盛大な舞踏会が催されていた。 各国から選りすぐられた才色兼備の美女たちが、菊丸に熱いまなざしを送っていた。 正装して、優しい笑顔を浮かべている菊丸は、彼女たちにとってまさに理想の結婚相手だった。 菊丸の薬指にはめられたダイヤモンドの指輪が、彼女たちにとっては気がかりだったが、菊丸は未婚なのでそんなことはたいしたことではなかった。 結婚相手以外に愛人がいるのは、王室ではよくある話である。妻の座さえ射止められればまずはよしとするのだ。 「ねえ、そこのお嬢さん! 僕なんかお相手にどう?」 千石は声をかけまくっていたが、まるで相手にされなかった。大石はそれでもメゲない千石を「すごい……」とつぶやきながら見ていた。 こうして舞踏会も終わりに近づいた。 「皆さん、静粛に! 菊丸王から、選ばれたお后の名前が発表されます!」 大石の司会に、一同はわいた。 菊丸が王座から立ち上がる。 皆、固唾を飲んで菊丸の言葉を待った。 「俺のお后は……お后は……」 王座の上の菊丸の声は震えていた。 千石たちが心配げに菊丸を見守る。 菊丸は肩をわななかせながら、唇を噛んでいた。 「英二、どうした?」 大石がたまりかねて、菊丸に駆け寄った。 うつむけられた菊丸の大きな目からは、涙がこぼれていた。 「菊丸さん……」 壇王子は胸の前に手を当てて、菊丸の様子を見守る。千石はそっと小さな壇の肩を抱いた。 お后候補たちはざわついた。 それに気づいた華村女官長は、菊丸に進言した。 「王様。あなたが選ばれたお后の名前をおっしゃってください」 菊丸はびくっと顔を上げた。双眸から涙がしたたり落ち、ダイアモンドの指輪の上に落ちる。 指輪は涙のしずくを受けて、きらりと輝いた。 「みんな、ごめんっ! 俺、俺……」 菊丸が泣きそうな声で言った時。 壇王子が王座の前に駆けだして叫んだ。 「皆さん! 悪いですけど、今日のこのお后選びはなかったことにします!」 お后候補たちはどよめいて、次々に不平の言葉を並べだした。 「どうして? せっかくここまで来たのに!」 「だいたいなんであなたがしゃしゃり出てくるのよ!」 壇王子はいっせいに向けられた苦情にひるみそうになったが、小さな胸を張った。 「壇くん……」 菊丸は驚きの目を壇に向ける。 壇王子は、深呼吸して宣言した。 「今日からこの国の王様は僕です! 菊丸さんには王様、やめてもらいます!」 王宮はひっくり返りそうな大騒ぎになった。 家臣たちはあわてふためく。 「壇王子に王権が戻ったら、また国がゆらぐのではっ?」 「だいたい、伝説の魔女はどうなるっ?」 壇王子は泣きそうになりながら、でもしっかりと胸を張って言った。 「僕は……僕は、みんなに迷惑をかけました。僕がしっかりしてなかったばっかりに……菊丸さんも、僕さえいなければ、越前くんとしあわせになれたのに……」 「そうだ! 勝手すぎるぞ!」 壇王子に容赦ないブーイングが寄せられる。 壇王子は菊丸の目を見据えて言った。 「菊丸さん、ありがとうございました! 僕、しっかり王様がやれるよう、死ぬ気でがんばりますから、菊丸さんは越前くんと……」 壇王子の目からこぼれ落ちた涙が、菊丸のはめた指輪にこぼれ落ちた。 その時だった。 指輪から燦爛とした光が放たれ、それは人の形を作った。 それは、リョーマだった。 リョーマは驚いた表情で、そこに立っていた。 「あ、あれ……? 俺?」 きょろきょろとあたりを見回すリョーマに、菊丸は我を忘れて抱きつく。 「おチビ! 会いたかったよ~!」 菊丸は泣きじゃくりながら、リョーマにキスの雨を降らせた。 「せ、先輩。やめてくださいよ、こんなところで……」 リョーマは自分たちを見つめる家臣とお后候補たちの当惑した目に真っ赤になりながら、菊丸を押し戻そうとした。 だが、リョーマのその双眸は、いとおしげに自分に必死に抱きついてくる菊丸に向けられていた。 「これはどういうことなのっ?」 華村が狼狽しながら、抱き合う菊丸とリョーマに駆け寄ろうとした時、空中からおさげ髪の少女が現れた。 桜乃だった。 「私と壇王子の契約が切れたんです」 桜乃は少し寂しそうに言った。 「私の託宣は、壇王子が王様をつとめられるようになるまで、王様をやってくれる人を探すためのものでした。だから壇王子が自分から王様を引き受けるって決めた今、私の託宣は無効になりました。だから、菊丸さんはもう王様ではありません」 桜乃の言葉に家臣たちがどよめく。 華村はしばし何か考え込む表情をしていた。 桜乃は不安げに華村を見つめる。 華村は鋭い目つきを壇上の菊丸とリョーマに向けた。 菊丸は笑いながら泣いていた。リョーマに頬をすりつけ、キスの雨を降らせる。 リョーマは怒ったような表情を作っていたが、うれしさを隠しきれない様子だった。 桜乃は華村にゆっくりと語りかけた。 「リョーマくんも私と契約したんです。菊丸さんがいくら探してもわからないようなところに隠してくれって。だから私はリョーマくんの魂をもらって、あの指輪に封じ込めました。壇王子が菊丸さんがいなくても、王様をやっていけるその日まで」 桜乃のあどけない顔を華村はうかがった。桜乃はおびえて身をすくめる。 「あの……私、何か変なこと言いました?」 「いいえ」 華村は笑ってかぶりを振った。 「あなた、もし壇王子が一生菊丸くんを必要としたらどうするつもりだったの? 指輪に越前くんを封印しておく必要がなくなるでしょう」 「それは……」 桜乃は口ごもった。頬がとたんに真っ赤に染まる。 華村はくすっと笑って、微笑ましげに言葉を続けた。 「もしかして、あなた、越前くんが好きだったのではなくて?」 「そ、そ、そんなことありません!」 桜乃はぶんぶんとかぶりを振った。 「嘘おっしゃい」 華村がからかうと、桜乃の体は宙に浮いた。 「もう、からかわないでください!」 桜乃は叫んだ。 するとドラゴンが現れ、咆哮した。 それまで壇王子に不平を述べていたものは息をのんで絶句した。 「おチビ!」 菊丸は驚愕して、リョーマを抱きしめる。 リョーマはにやりと笑ってつぶやいた。 「まったくあいつったら……まだまだだな」 「おチビ、どうしよう。宮殿が壊れちゃうよ」 あわてふためく菊丸にリョーマはあきれた顔をした。 「まったく先輩も細かいところに気が付きますね」 「細かいところじゃないよ! 一大事じゃん!」 そんな一大事の中、千石はおびえる淑女を口説こうと必死だった。 壇王子は震える足で必死にドラゴンに立ち向かおうとしていた。 「僕が……僕がしっかりしなきゃ! 僕、王様ですっ!」 「その心意気はみとめてあげるよ」 リョーマが微笑みかけると、壇王子は真っ赤になって「あ、ありがとうです!」と頭を下げた。 リョーマのその態度に菊丸は思う。 (おチビ、本当に俺のところに帰ってきてくれたんだね。これでこそ、おチビだよ) 大石が血相を変えて、リョーマに呼びかける。 「越前、王宮が壊れるのはちっとも小さなことじゃないぞ。なんとかしてくれ。お前、あの魔法使いと知り合いなんだろ」 「ま、そんなとこですかね……お前!」 リョーマはドラゴンの背中に隠れてもじもじしている桜乃に呼びかけた。 伝説の魔女相手に「お前」呼ばわりなんて。 こいつ、ただものじゃない。 一同はリョーマに瞠目した。 「な、なんですかっ?」 桜乃が裏返った声で、ドラゴンの背中から返事をする。 「このでっかいの、どっかやってよ」 「あ、そういえばそうでした……えいっ!」 桜乃は魔法の杖を振り上げた。が、ドラゴンは消えなかった。 一同は顔面蒼白になる。 リョーマだけが冷静にドラゴンを見つめていた。 菊丸はリョーマを背中にかばって、剣を取る。 「どうするんだ、英二?」 大石が訊ねた。 「俺、さっきまでこの国の王様やってた人間だもん。この身を変えてもみんなを守る」 千石が目をむく。 「え? せっかく越前くんとまた会えたのに、ここでドラゴンと戦って死んだら意味ないじゃん」 「そうです、菊丸さん!」 壇王子も涙を流して菊丸に訴えた。リョーマは冷静に菊丸に目を向けていた。 「いいんだ。おチビとちょっとの間でもまた会えて、嬉しかったよ。もう一回だけキスさせて」 そう言って、菊丸はリョーマにくちづけした。 ドラゴン相手に奮闘していた桜乃の瞳が、その姿をとらえてゆらいだ。 華村はそんな桜乃を微笑みながら見つめる。 ドラゴンは咆哮しながら、人々に向かって襲いかかろうとした。 「やめろー!」 菊丸が叫んで飛びかかろうとすると、ドラゴンは菊丸を食らおうとする。 「先輩!」 リョーマがそう叫んで飛び出して、菊丸に抱きついた。 二人がまさに食らわれそうになったその時。 「この国で、誰も傷つけさせないです!」 壇王子は叫びながら、ドラゴンの背中に剣をつきたてていた。まるで小人が巨人にいどみかかっているようなささやかな攻撃だった。 壇王子があぶない。 みながそう思った。 だが。 ドラゴンの姿は瞬時にして消えていた。 「壇王子、ありがとうございます!」 「それでこそ、われらが王です!」 家臣たちが一丸となって、壇王子の周りに集まる。彼らの瞳には尊敬と敬愛があふれていた。 「……これで壇王子も王様への最終試験合格ね」 華村は桜乃にささやいた。壇王子は家臣たちに胴上げされていた。 「ええ。でも華村さん、ひどいですよ。私にあんなことを言うなんてことは打ち合わせには入っていませんでした」 桜乃はほおをふくらせる。 「あなたには本気で狼狽してもらった方が、皆も信じてくれると思って。でもあなた、越前くんのことは本当に……」 桜乃は静かにうなずいた。 悲しみと祝福のいりまじった瞳で、菊丸に抱き上げられているリョーマを見つめる。 「はい。好きでした。恋に効く魔法があったらいいなって思うくらいに」 華村は桜乃に微笑みかけた。 「もしそんな魔法があってたとしても、あなたはそれを使うような子じゃないわよね」 桜乃の頬に、涙がこぼれ落ちた。 伝説の魔女も女の子なのだ、と華村は思った。 あれから一ヶ月。 壇王子は王座についた。国民たちはドラゴンと果敢に戦った小さな王様を信頼し、応援しているという。 壇や大石たちはしきりに菊丸に王宮に残るように勧めたが、やがてあきらめたようだった。 菊丸は自分がいると、壇のためにならないと思ったのだ。 そして菊丸とリョーマは。 「おチビ~、待ってよ!」 広々とした平原を、菊丸はリョーマを追って走っていた。 ようやく追いついて、リョーマの肩をつかんでふりむかせる。 「ひ、ひどいよ、おチビ。俺に隠れてこっそり宿屋を出ちゃうなんて……」 菊丸は膝小僧に手をついて息を切らす。リョーマは仏頂面でそんな菊丸を見下ろしていた。 二人は国を出て、諸国をまわっている。王様をやっていた人間がいきなり庶民に戻ると周りに注目されるからというのもあるが、リョーマとともに自由に美しいものを見たいと菊丸は思ったからだった。 今朝、リョーマは菊丸が寝ている間に宿屋を一人出て、それを菊丸が必死に探して追いかけてきたところなのだった。 「どうしてこんな意地悪するのっ?」 泣きそうになって菊丸は言う。 リョーマは困ったように青い空を見上げていたが、口をとがらせてぼそりと言った。 「だって……先輩といっしょに宿屋出るの、恥ずかしかったから」 「恥ずかしいって?」 「ゆうべ、俺にあんな声出させて……きっと周りに聞こえてたッス」 菊丸はしばし呆然としてリョーマを見た。 やがて屈託なく笑いながら、リョーマに飛びつく。 「や、やめてくださいよ! こういうことするから、俺は先輩といっしょにいたくないのに……」 「ごめんね、おチビ。ただ、おチビがそんなこと気にしてるの可愛くて……」 「そんなことって言っても恥ずかしいし、周りに迷惑でしょっ?」 「そうだね、迷惑だね。俺、これから宿屋で一番高くて壁の厚い部屋を借りることにするよ。そうすればおチビも遠慮せずに泣けるでしょ?」 「俺は泣いてなんか……」 菊丸はリョーマの唇をふさいだ。 「あッ……」 リョーマが甘い声を出す。 「ほうら、今だって泣いてたじゃん」 「泣いてません」 「泣いてたって」 「……先輩、うざいッス」 「ふうん」 菊丸はにやりと笑いながら言った。 「そんなうざいヤツをあの日、ドラゴンからかばっていっしょに死のうとした可愛い子は誰だっけ? 指輪の中で、ずっと俺に会えるのを待ってたのも。ねえ、おチビ?」 リョーマは絶句した。真っ赤になって、菊丸を平手打ちしようとする。菊丸はリョーマのその手をつかんで、手の甲にキスした。 「……先輩の馬鹿」 リョーマの精一杯の憎まれ口に菊丸ははじけるような笑みを浮かべた。 「そうなの。俺、馬鹿だよ~ん。おチビのために王様やめたんだから。おチビといっしょにいられない王様なんて、たくさんの家来がいてもひとりぼっちと同じことだもん」 菊丸の言葉にリョーマは大きく目を見開いた。その双眸がうるんでいることを菊丸は見のがさなかった。 「大好きだよ、おチビ。ずうっと一緒だかんね」 王座を捨ててまで選んだ無愛想な恋人を、菊丸は深くだきしめた。 END |